安来 パチンコ

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 カール・コンスタンチン・アルブレヒト・レオンハルト・グラーフ・フォン・ブルーメンタールという軍人は、1810年、名門のプロシア軍人貴族の家に生まれます

 折からナポレオン戦争の真最中で父アルブレヒトは1813年、スウェーデン王国のベルナドット王太子とプロシア王国フリードリヒ・フォン・ベロウ将軍率いる連合軍VSナポレオン軍の猛将ミシェル・ネイ将軍とニコラ・ウディノ将軍率いるフランス軍との戦い「デンネヴィッツの戦い」で戦死しています

 成長するとベロウ将軍の後援もあって士官学校へ入学、優秀な成績で卒業後、出世の登竜門・近衛ヒュージリア連隊の少尉として軍人人生をスタートさせました

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33年にはプロシア軍大学へ入学、ここも優等で卒業するとコブレンツのラントヴェーア部隊勤務の後、中尉で参謀本部地図課入りし、48年の動乱期にはベルリンで暴徒鎮圧にも活躍して大尉となっています

 49年の第一次シュレスヴィヒ=ホルシュタイン戦争ではあのフォン・ボーニン将軍の参謀として参戦、同年7月の「フレゼレシアの戦い」で参謀長が戦死すると少佐としてシュレスヴィヒ派遣ドイツ連邦軍の参謀長となります

 戦後参謀本部に戻った彼は中佐に昇進後ヘッセン=カッセル方面の指揮官となり、イギリス駐在武官を経て軍のホープ、カール親王の副官となります

大佐昇進後はカール親王の下で連隊長を二度勤めました

 63年12月の第二次シュレスヴィヒ=ホルシュタイン戦争では普第3軍団参謀長として参加、ドゥッペル堡塁攻撃やアルス島上陸作戦などでもカール親王の参謀長・モルトケを助けて尽力し、戦後少将昇進とプール・ル・メリットを獲得しています

 そして66年、普墺戦争で第二軍参謀長として皇太子の下に付き、シュタインメッツの活躍にも助けられ、戦後プール・ル・メリットに「柏葉章」を付け、ホーエンツォレルン王家勲章(騎士位)を授けられ中将に昇進しました

 その後第14師団長を経て、この70年7月の宣戦布告で第三軍参謀長を拝命し、再び皇太子の「知恵袋(そして参謀本部からのお目付け役)」となり(この任命は皇太子が望んだとも言われています)、普仏戦争に臨んだのでした

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 このように名門軍人一家の名に恥じぬ(同時期に弟や親戚筋にも多くの軍人がおり、普仏戦争では2人が戦死しています)立派な参謀としての功績があるブルーメンタールでしたが、皇太子の後見としてその指揮振りから同時に陰口も叩かれるようでした

 いわく「慎重紳士」「石橋を幾度も叩く男」「じっくりと後ろで構えているだけで何もしないのに昇進」等々…… しかしこの批判も的外れと言えるのではないでしょうか? ブルーメンタールは、軍事才能的には「ごく一般的」な皇太子を立てて、その采配中には適所で口を挟みはするものの出しゃばらず、常に後ろに控えていました

当時従軍中の皇太子を描いた絵画には必ずと言っていいほど登場し、必ずその後ろに描かれていることが証左だと思います

 また、普仏戦後に宰相ビスマルクは非常に興味深いことを書き残しています

「私が見る限り彼(ブルーメンタール)は多くの記事や報告書には登場しない

しかし彼は皇太子殿下の参謀長であり、今次戦争の貢献度で言えばモルトケに次ぐ者であると言えよう

彼はヴァイセンブルクとヴルト、そして後にセダンで勝利を得るが、皇太子殿下は常に彼の作戦計画を素直に認め、干渉せずに自由に行動させようとしていた」 つまりブルーメンタールの作戦計画を忠実に実行に移したのが皇太子で、ブルーメンタールもそれを己の功績とせず、常に陰の存在として皇太子を立て、采配中は邪魔をせず、皇太子もここぞという時には必ず彼の意見を聞き、その通りに従った、そう見る方が自然と言うものです

 また、この二人のコンビは双方の敬愛の情と思いやりで成り立っており、お互いの性格を考慮し熟考の邪魔をせず、必ず相談しあって軍の指揮を執っていたと思われるので、速戦即決・唯我独尊のプロシア軍人たちから見た場合、歯痒いほどの慎重さと優柔不断さに映ったものと思われます

 一部口さがない連中は、皇太子は「臆病」なのか何か事が起きても直ぐに前線へ駆け付けず、参謀や副官に見に行かせるから行動が遅くなった、等と言っていますが、これもいざとなれば「使い捨て可能な」キルヒバッハやボーズと同列に見ているからで、ドイツの次代を担う皇太子は国のために「臆病」であるべきで、そう簡単に銃弾飛び交う前線に出動するなど出来るはずもないのです